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ウエストリブのスキニーデニム
足長効果絶大なスキニーデニム。ストレッチ素材とウエストリブではき心地も抜群!
大人気のスキニーデニム。 その足長シルエットと伸縮性に優れた素材、ウエストのリブ使いなど どこまでもはき易さとカッコよさを追及して ロングセラーに!リピター続出です。
- 販社名
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(有)GOJO
- ブランド
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Mibu2
- 価格
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¥4,600
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Go Anywhere ミリタリーワッペンスキニーデニム
大人気のミリタリーワッペン付きの本格ダメージ加工スキニーデニム
裾のつかみがしっかり入り、本格加工のデニムです。足長効果もばっちり!
- 販社名
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(株)カイタックインターナショナル
- ブランド
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Go Anywhere
- 価格
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¥2,600
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【SALE】ZIPSボアつき7分丈デニムパンツ
ロールアップもきまるデニム&ボアのトレンドパンツ
トレンドのボアをプラスしたおしゃれなデニム。裾の裏側にはボアを使用しているので、ロールアップすれば違うイメージでも着こなせます。ウエストは総ゴムだからはきやすさも◎。
- 販社名
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ZIPS
- ブランド
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ZIPS
- 価格
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¥3,185
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【SALE】CHILD CHAMP ストレッチデニムハーフパンツ
見せパン風なチェックのWウエスト
ウエストのブロックチェックはボーイズならではの隠れたポイント。総ゴムだから着脱だってらくちんです。かっこよくブラスト加工された本格カラーデニムで、ワンパク系コーデには欠かせない1枚。
- 販社名
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丸福商事(株)
- ブランド
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CHILD CHAMP
- 価格
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¥1,960
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【SALE】ストレッチデニムボアショートパンツ
本格派の色落ち加工デニムとふわもこ感がミスマッチ☆
アメリカ国旗風のカットソーをデニムのウエスト内側から重ねたようなデザイン。ぽんぽんと裾ボアがかわいい。ストレッチデニムはブラスト加工で、本格的な色落ち感を実現。
- 販社名
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丸福商事(株)
- ブランド
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CHILD CHAMP
- 価格
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¥2,310
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【SALE】カラーストレッチデニム
ウエストのチェックと色落ちで、こなれた着こなしを約束
落ち着いた色合いのカラーストレッチスキニー。ひざの微妙な色落ち感がユーズド風の味わいに。ウエストゴム部分はトレンドのブロックチェックで、チラ見せしたいポイント。
- 販社名
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丸福商事(株)
- ブランド
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CHILD CHAMP
- 価格
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¥1,960
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【SALE】ZIPS 3D加工デニム
おしゃれオーラ全開!超絶・3次元加工デニム
はいたときのシルエットがかっこいいように、3次元のレベルで加工を施した超本格デニム。微妙な色落ちやシワの1本1本まで計算しつくされた特別なユーズド加工で誰よりもモードなスタイルが完成します。
- 販社名
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ZIPS
- ブランド
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ZIPS
- 価格
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¥4,830
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【SALE】ストレッチデニムホットパンツ
ふわふわボアがキュートな史上最強のショーパン
大人気のデニムショーパンを、裾のボアでキュートに格上げ! はくだけで気分がアガるデザインは、届いたその日からヘビロテ間違いなしです。お気に入りのレギンスとあわせてグラマラスに決めたい一枚。
- 販社名
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(株)アルプ
- ブランド
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Repaysan
- 価格
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¥2,030
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【SALE】CONLUSORウエストリブのこだわりデニム
トップトレンドMIXで、ストリート カジュアルを制覇!
USED加工からバックポケットの合皮飾りまでこだわった本格派。ウエストリブではき心地も抜群だから、ヘビーユースうけあい。
- 販社名
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(株)モノス
- ブランド
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Conlusor
- 価格
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¥1,500
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【SALE】ストレッチカーゴブーツカットデニム
スッキリはけてかっこいい美・カーゴの筆頭パンツ
ラフになりがちなワークタイプをブーツカットでスッキリシルエットに仕立てました。ユーズド加工を施したヴィンテージの風合いはお値段以上のルックス。ポケットにはベルトつきでさらに存在感大!
- 販社名
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ベビーアパレル ハヤシ
- ブランド
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GARACH
- 価格
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¥2,310
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デニム パンツに関する旅行記
- 2010 夏(ロシア) 6日目(18日)...
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今日は、半日列車の中である。
かなり、昼過ぎまでごろごろしてたが、さすがに、退屈だ。
他の乗客達は、食事したり、通路に立って外を眺めながらおしゃべりに講じている。
一人なので、顔を洗いにトイレに行っただけで、後はおとなしくしてた。
誰もが、あまり荷物から離れない様にって言うもんで・・・。
そんなに悪い奴は、いそうにないのだが・・・。
食堂車とか、探検に行きたかったねー。
相方の家族が、ベッドを片付け始めたので、辞書で、何とか聞いてみたら、やっぱり、もうハバロフスクが近いと言うので、自分も片付けにとりかかる。
が、実は、まだ1時間以上あった。
慎重なおとうさんだ。
お母さんは、割と、のんびりやって感じで、お嬢さんは、やっぱり大変明るくて人懐っこくてかわいい。
ブラゴベに行く時は、アムール川を渡る時に全く気が付かなかったが、今回ま昼間って言う事もあって、完璧。
これに気が付けなかったなんて、どう言う事って感じではある。
川を渡ったらすぐに駅のはずだが、かなりスピードをゆるめてるのと、思いの他距離があるみたいで、けっこう時間がかかる。
が、○カチョンカメラで風景を撮り巻くってたので、まー、あっと言う間ではあったけどね。
列車が止まって、いよいよ降りる時が来た。
止まる前に、スヴェタが来ているのが見えた。
やはり、彼女はロシアの女性の平均よりもだいぶ背が高いんだわ。
すぐに気が付くので助かる。
大勢降りる様なので、思ったより緊迫感は無かったけど、ここで降りそびれたら、この列車はウラジオストックまで行くんだと思う。
列車を降りる時も、降りた後も、何のチェックも無い。
降りたら終了、って感じ。
列車は、駅の建物よりも全然長いので、降りたお客さんは、線路と道路の隙間と言う隙間から、バラバラに町に吸い込まれて行く感じ。
だが、バスやタクシーは、駅の建物の前にいるわけなので、道路に出ても、迎えの来てない人達は、やっぱり駅前に向かって集団で移動、って言う光景にはなるんだわなー、やっぱり。
スヴェタと一緒にタクシーに乗ってホテルに向かう。
チェックインの手続きをしてもらって、クリーニングに出したい物があると言ったが、このホテルでは、クリーニングのサービスをしていないらしい。
エアコンも無いけど、良いか、って言うので、OKにした。
少し追金すれば、エアコンのある部屋にも変えられるらしいが、まー、最初から、一番安いホテルにしてみようと思ってたので。
スヴェタは、仕事が終わったら連絡する、と言って、仕事に戻って行った。
ホテルの方に部屋まで案内されて、明日の朝食のメニューを決める様にって事だったので、英語のメニューが有ったので、何とか決た。
扇風機があったので、エアコンが無くても、何とかなるだろう。
で、取り敢えず、風呂だ。
これで、洗濯しないと、もう、着替えが無くなるはず。
最悪の事を想定して、まず、足りなくなるパンツを一丁だけ風呂場で洗濯しとく。
風呂から上がって、荷物を片付けながら何時に仕事が終わるのか聞かなかったなー、って思いながらTVを見ていたが、やっぱり、暇だし、探検に出かける。
コインランドリーでもあれば、めっけものだし。
まず、近所のショッピングセンターに行って見る。
大きなスーパーと、テナントビルが合体した様な、イオン的なショッピングセンターだ。
ここは、何度も来る事になるだろうな、って思い、1階をスルっと回っただけで、街の方に行って見る事にした。
ホテルを出て、2時間くらいたった頃かな、スヴェタから連絡が入った。
今日は行けなくなったとの事。
しゃーないか、って思ってたところに、オルガから電話が。
心配してくれて、かけてくれたのだった。
無事に、スヴェタと会えて、ホテルにチェックインして、今、暇してると言うと、家に来るか、って言う。
もちろん、良ければおじゃまします、っと。
ちょっと準備するので、もう一度かけなおす、って事で、一度、電話を切る。
ホテルに戻っといた方が良いだろうと思って、戻りはじめる。
が、まだ、ホテルまで、20分以上かかるだろうな、って言う所でオルガから電話がかかってきた。
ホテルにタクシーを向かわせるので、それに乗る様に、との事だが、オルガが私のホテルを知る訳が無い。
普通、日本の旅行代理店でハバロフスクのホテルを取ろうとすると、たいたいインツーリストホテルなので、そこだと思ってる感じだ。
今、どこにいるか聞かれても、全く答えようが無いし・・・。
ホテルに帰るまで待って、って言いたかったが、通行人にこの電話に出てもらえ、って言うので、最初はいやな顔をされたが、何とか出てもらって。
オルガが、その女性に説明したんだろう。
それで、その女性が、待ち合わせ場所に案内する、って事になったらしい。
女性に連れられて行ったのは、すぐ近くの交差点。
まー、目印になる所には違いない。
まだ電話でオルガから説明を受けてたので、ちゃんとお礼もできないまま、その女性は行ってしまった。
ナンバーがこれこれの白のタクシーが行くので、それに乗る様にと。
しばらく待つとタクシーが来た。
それに乗ると、これまた、運転がなかなか。
ハワイは、全然問題なかったし、オハイオや、イタリアでも、レンタルバイクがあれば、車よりバイク、って思ってるんだが、ロシアは、バイクはやめといた方が良いかも、って思うくらいな感じ。
かなり街中の割に、車が多い割りには高速で、接近戦である。
が、そんなに不快な車線変更や、不快なブレーキングや、不快な加速をする訳でも、無いっちゃー無い。
この信頼関係は、どこから来るのかわからない。
だから、運転が上手いっちゃー上手いんだな。
周りにいる車も含めて。
でも、時々、年寄りの運転する、かなりへたくそな車も、日本より多いかも、ってなくらいいるんだがねー・・・。
後、信号のシステムが日本と違うけど、こっちの方が良いかも。
っな事を考えてたら、オルガのアパートに着いたらしい。
街から、10km以上あったと思う。
が、10分もかかってないかも・・・。
オルガの姿は見えないが、聞いていた料金を払い終えて降りると、オルガが現れた。
オルガのお家に入ると、娘さんがいた。
初めて会ったかも、な、恥ずかしがり屋さんだ。
まー、色々な性格もあるだろうし、今まで会った人なつきの良いと思った子供達よりは、少し年上なので、そういうのもあるかもね。
本当に、ありあわせと言うか、準備なんてできてない感じで、まずは、ビールで乾杯。
もう少し、遅く来ても良かったのに、っと思いながらも、料理しながら、準備しながら、って言う感じで、しばらく慌しい中、チビチビと、料理とビールをごちそうになった。
色々な料理を出してくれて、その説明もしてくれたりしながら、ブラゴベとハバロフスクの違いや、色々と話が弾んでる所に、だんなさんが帰って来た。
だんなさんも、かつて、愛知県のレストランで働いていた事があるらしいが、もう、ほとんど日本語は忘れたみたい。
だんなさんも加わって、しばし3人でおしゃべり。
何を話したか・・・。
もう、かなり忘れてて、思い出せない・・・。
一つだけ覚えてるのは、ハバロフスクにもコインランドリーがあって、そこの電話番号を調べてくれた、って事。
たぶん、外はもう暗かったので、10時か11時頃までおじゃましていたと思う。
タクシーを呼んでもらって、帰路に着く。
ホテルまで、300ルーブルだったけかな。
¥900もしない感じだ。
でも、ブラゴベよりは、ハバロフスクのタクシーは、だいぶ高いらしい。
ホテルに帰って、風呂入って、冷蔵庫の有料ビールに一個だけ手を出して、晩酌して、寝る。
P.S.
画像は、ハバロフスクの駅周辺。2010/09/05 03:09:05
- 2010年8月、再度「川上渓谷」を撮る。...
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「川上渓谷」に到着した時すでに15時近かった。
折り返しのバス最終便がこの停留所を出るのが確か17時28分だから、さほど時間的に余裕がある訳ではない。
そのために少々焦ったのだろう、川べりは滑りやすいので、カメラとレンズを壊さないようにと注意していたつもりだが、写真撮影に集中していて後ろ足を踏み外し、小さな水路の中に落ちてしてしまい、危うく怪我をするところだった。
体重を後ろ足にかけていたので、体ごと水路に落っこちてしまったが、運良く水路の深さが1m程度だったので、三脚を地面にぶち当てただけで幸い、カメラとレンズは無事だった。
がしかし、着ていた作務衣のズボンの股の部分が20cm近く破けてしまった。
やれやれ、やはり時間的に余裕を持った撮影計画を立てるべきだった。
これからバスと列車を乗り継ぎ、K駅からは4km程歩かなければならないのだ。
やむを得ず上着を腰に巻きつけて、パンツ丸見え状態を防いだが、いろいろあります人生は・・・。2010/08/30 08:08:32
- 2006暮、中国旅行記11(2):12月8日:青島・セントレ...
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<2006年12月8日(金)>
7時にセントレア空港のカウンターに集合の約束でしたから、地下鉄の始発で出掛けました。鶴舞線の原駅が、5時33分発です。もう1本後の電車でも十分間に合いましたが、早い方が余裕を持って行動できます。フライトは、8時50分発の青島経由北京往きの第1便です。青島到着予定時刻は、現地時間で10時40分です。日本とは1時間の時差がありますから、2時間50分の飛行予定時間となります。上海までが、往路で2時間30分ですから、少しだけ長いフライト時間となります。
<セントレア空港集合>
金山から名鉄電車に乗って、セントレア空港へは6時半頃に到着しました。暫くデジカメで写真を撮った後、待合せの場所に向かいました。セントレア空港は、クリスマスの飾りで賑やかになっていました。
今回は混成メンバーですから、セントレアへの集合は、区々でした。少し遅れる方などが、徐さんに連絡を入れられていましたから、出発ゲートに30分前に集合する約束で、一旦解散しました。
今回始めて中国旅行をご一緒するYaさんと一緒に、先にチェックインを済ませました。既に座席は指定してありましたので、確認だけです。
<新規就航、第1便セレモニー、名古屋出発>
保安検査の列は短かったですが、早目に出国審査を済ませることにしました。ベルトも取りましたので、金属探知機は1発でOKでした。
中国東方航空が、セントレアと青島経由北京航路を新規就航させましたので、そのセレモニーが出発ゲート前で行われました。日本のテレビ会社の取材もされていました。初めてみる光景ですから、そのセレモニーの様子をお伝えします。
セレモニーの内容は、来賓挨拶、テープカットと機長への花束贈呈でした。女性の司会者の誘導で進行されました。来賓の方は5名でした。官庁からは日本の大阪空港長、中国からは駐日名古屋領事が出席されていました。航空会社は中国東方航空の名古屋支店長の他、共同運航の日本の航空会社の支店長も出席されていました。この4名の方と、セントレア空港の副社長を含めた5名の方です。
この5名の方が、それぞれに来賓挨拶をされましたから、結構長いセレモニーとなりました。その挨拶が終ったところで、テープカット、機長への花束贈呈が行われました。
セレモニー後の記念撮影会もありました。クーと名付けられた縫い包みと一緒の記念撮影です。
来賓挨拶が長く、少しやきもきしましたが、定刻どおりの出発となりました。私は例によって、リュック一つの軽装です。保安チェックが厳しくなりましたので、免税店でもオールドパーは購入しませんでした。
アメリカ行きほどではありませんが、中国便でも機内への持込が厳しくチェックされます。殊に中国国内機は厳しい規制があります。日程が短いですから、オールドパーを呑む機会もありません。
<上空から見た青島>
3時間弱のフライトで、青島上空に差し掛かりました。青島空港は、車で青島市内まで1時間ほどの内陸部にありますから、暫くは上空からの青島見物です。
海岸線には中高層ビルが立ち並んでいました。形や並び方から推測しますと、住宅街のようです。その次に姿を現したのが工場地帯です。鉄鋼所のような大きな工場が見え、石炭を野積したような黒い敷地も目に飛び込んできました。
工場地帯を過ぎると農村風景に変わりました。青島郊外まで飛んできたようです。獲り入れが済んだ畑に混じって、緑の畑も見えました。麦畑や野菜畑のようでした。名古屋を出発して大きな揺れもなく、無事に青島空港へ到着しました。
<青島到着、まずは昼食>
眼下の景色を楽しみながら着陸を待ちました。名古屋を発った時にはぐずついた天候でしたが、青島の天候は上々のようです。青島空港で出迎えてくれたのは、現地ガイドのグーさんでした。「谷」と言う字を書くようです。若手と言っても、ベテランと言っても失礼になるような、中堅の女性ガイドさんでした。
空港からホテルまでの距離は、車で1時間弱のようです。午前中の到着ですから、チェックインの時間には早過ぎました。それで、まずは昼食です。最初にチャーハンが出ましたが、塩味が今一でした。この料理は殆んど残ってしまいました。料理はともかく、まずは青島麦酒です。麦酒に合う料理が少しだけあれば、私の場合問題ありません。
<現地ガイドさんからお聞きした青島の現況>
現地ガイドのグーさんからお聞きした青島の現況を、話し言葉に編集して紹介しておきます。
『青島は「島」ではなく山東半島に位置しています。現在の市街地の人口は270万人、周辺の五つの町を合わせると約700万人です。1897年から20年間の独逸租界時代がありました。避暑地としても有名です』
『韓国に近く、外資導入が盛んです。コリアタウンが出現し、現在は7万人の韓国人がビジネスで居住しています。2位の日本人は数千人ですから、圧倒的な数です。韓国は大企業が進出していますが、日本からは主に食品、衣料を扱う中小企業だけです』
『中国全体では山東省は3番目の9400万人です。1位が河南省の1億1000万人、2位が四川省の1億人です。主な産業は農業で、人口の8割が従事しています。特産品は小麦、玉蜀黍、落花生、大豆、綿花、野菜などです。果物は梨、葡萄、プチリンゴ、さくらんぼ、桃などが特産で、ワインも生産しています。野菜は、夏場は露地で、冬場はビニルハウスで栽培しています』
等と紹介してくれました。自己紹介では、
『北京師範大学を卒業した後、青森の大学に留学しました。出身地は長春です』
と自己紹介されました。中々流暢な日本語を話されました。翌日お聞きしたお話も纏めて紹介しておきます。
『市街地の270万人の内、2/3が地元出身者で、主に旧市街地に住んでいます。新市街地には、主に金持ちの投資家が住んでいます』
『年間降雨量は7~800ミリです。台風、地震、大雪などの自然災害は殆んどありません。台風が上陸しても、勢力が弱まっています』
『労山は青島麦酒の水を産出しています。水質が良いので、緑茶の名産地です。その一番有名な銘柄は「労池雲峰茶」です。漁業では、鮑、帆立を養殖しています』
『一人っ子政策が始まった1970年代からは「小皇帝」と呼ばれるわがままな子が多く育ちました。来年は豚年です。この年に子供が生まれると縁起がいいので、今年は結婚ブームです』
等でした。ガイドブックには載っていない話題も多くありました。
<海岸散歩、花石楼へ>
最初の見学地は、海浜遊歩道の散策です。その最終目的地は八大関と呼ばれる景勝地に建つ花石楼です。さすがに冷え込みましたので、ポケットに手を入れて、首をすくめての海岸散策でした。
そんな寒空の下でも、寒中水泳をする人たちを見かけました。例年のことのようです。気温は、日中が4度C、夜間が零度と予想されていました。遠くから海水に浸かっている人が見えましたし、浜辺に向かう人は海水パンツ姿でした。この方とは、もう一度出会いましたが、ご年配の方でした。海岸へ向かう時も、戻ってくる時も悠々とした歩みでした。
<花石楼>
インターネットで調べた観光ガイドを参照しながら、花石楼について説明します。最初に花石楼の立地と起源です。調べた記事の間に相違がありましたから、私なりの解釈を加えた紹介です。
『花石楼は、八大関の東に位置する西洋建築です。格拉西莫夫(カラシモフ?)という、白ロシア人によって建設されました。帝政ロシア時代の領事館だったようです。その後、ドイツ提督が魚釣りや狩猟、休憩する場所として使用していました。ドイツ租界時代が終った後は、国民党を率いた蒋介石が住まった時代もあります』
次に、花石楼からの景観と名前の由来です。
『5階建で、屋上の観海台からは黄海と八大関のすばらしい景色が広がります。この建物は花崗岩により造られていることから「花石楼」と呼ばれています。外観はドイツ風、ゲーテ風のこじんまりとして華麗精緻な雰囲気があります』
と、紹介されています。別称、「歇脚楼」の名前があります。私の花石楼見学の印象について記しておきます。
花石楼は石造りの門があり、その正面に改札の小さな小屋があります。入場料は5元です。門の前には、お土産店もありました。貝や珊瑚を使ったアクセサリーが主体でした。石門に取り付けられた案内看板には、この建築が「珍奇的建築芸術品」と評価され、国民党を率いた蒋介石が住まったことも記されていました。
本館の入口までは少し長いアプローチがあります。前庭には西洋風の花壇や植栽があり、記念撮影用のアーチなどの飾りがありました。この飾りは、最近追加されたもののようです。記念撮影のために、別料金が徴収されていました。
文化大革命の時の被害は少なかったようです。建物や什器類に、傷跡などは残っていませんでした。この建物の最大の見所は、やはり遠景に広がる太平湾の眺めです。最高の景観の場所を選んで建設されたことが、容易に想像されました。半世紀以上経って、樹木は伸びたかも知れませんが、湾の眺めは、おそらく当時のままでしょう。
テラスがあり、窓も多めで、全体として開放的で明るい造りですから、要人の警護に適した建物ではないようです。蒋介石が住まった時代も、戦況が厳しい頃ではなかったかも知れません。
ところで、八大関は1930年代建設された別荘地区を指します。この地域には8本の道があり、道の名前は中国8箇所の関所の名前で名づけられたので、八大関だと呼ばれています。現地ガイドのグーさんからも、この謂れをお聞きしました。
世界各国の領事館の金持ちの作った別荘は、風格はそれぞれです。世界建築博物館とも例えられています。2002年、八大関は中国国家文化財に指定されました。
<自由行動、市内散策>
花石楼見学の後、ホテルにチェックインしました。グランド・リージェンシーホテル、中国語表記では麗晶大酒店です。夕食に出掛けるまでの間、自由時間になりました。
部屋に荷物を置いた後、付近の散策のために外出しました。ホテルの北側に東西に伸びる大通りがありましたから、この通りを西方面に向かうことにしました。広い通りですが、交通量はそれほどではありませんでした。香港中路と呼ばれています。新市街と旧市街を結ぶ二つの通りの内の一つです。
この大通りに面して、超高層ビルと呼ばれる、高さが60mを超えるビルも建っていました。上海の規模には遠く及びませんが、急速に進む都市化のスピードは目を見張るものがあります。これまでにマイクロバスで回った新市街地とその周辺は、まさに建設ラッシュでした。
今日の市街地散策は、ジャスコのお店まで歩いて、そこから引き返しました。中国に相応しい、広大なショッピングセンターでした。
<下町風景>
本通りから逸れて、下町の見学もしました。その紹介です。ホテルから西に歩いて、左手、南側に折れて古い住宅街を回りました。石段の上に小さな商店がありましたので、最初はその商店の中を覗いて見ました。
古い建物の中では、4、5軒ほどが営業していました。全て食料品でしたから、夕飯の材料を買い求める地元の方が、品定めをしていました。魚屋さんもありましたが、鮮度は「?」でした。穀類や、ピーナツなどの豆類、野菜など、一通り食材が揃っていました。入口近くでは、揚げパンのような物が作られていました。下の写真の腸詰めのソーセージは、赤い防錆塗料を塗った、通路の手摺りにぶら下がっていました。
更に奥に進みますと、4、5階建ての古い住宅街があり、その一角には露店が並んでいました。野菜類が主でした。採り立ての野菜の感じがしました。近隣で栽培している人が売りに着たのか、その農家から仕入れた人達が店を並べている風に見えました。
野菜はキャベツ、小松菜のような青菜、カリフラワー、青葱、玉葱などの他、トマトや果物も並べられていました。根菜ではサツマイモなどです。結構沢山の露店の数ですが、売っている物は余り違わない品揃えでした。採り立ての茸も並んでいました。
<海鮮料理の夕食>
夕食のレストランまでは、車で出掛けました。恒隆海鮮酒店という名前のお店での海鮮料理でした。内容は、材料に海鮮を使ってありましたが、野菜もふんだんに使ったヘルシーな料理も各種ありました。ともかく量が多く、かなりの料理が残ってしまいました。
現地ガイドのグーさんからお聞きしていた、青島近郊は野菜、果物の名産地であることが実感できました。茸を使った料理もありました。午後の散策の時、露店で売っていましたから、今が旬なのでしょう。
飲み物は、当然ながら青島麦酒です。私はもっぱら麦酒のツマミによさそうな料理を主体に戴きました。つい、青島麦酒の追加となりました。味付けは濃過ぎず、塩味も昼のお店よりはちゃんとしたものでした。
海鮮を使った料理で、私が確認できたのは、小海老の唐揚げ、小型の帆立の蒸し料理などでした。材料が特定できない料理中にも、各種の海鮮材料が使われていたようです。ハムや豆料理もあり、油揚げらしい材料も使われていました。
旅の始めに
一番機海を飛び越え直行す山東半島目指す青島
日中の雪解なるか国結ぶ航路は増て嬉しこの年
海岸散策で
寒空に水泳姿の人のあり浜辺に向う歩み静に
市内観光のバスで
裏町の生業見んと脇道に逸れて楽しむ短き旅を
花石楼で
中国の歴史刻みし要人の姿今無し古き館に
目の前の景色に想い馳せ巡り古想う旅のひと時2010/08/28 09:08:47
- 遼寧省に、張親子鷹の 見果てぬ夢を辿る(1)...
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花槐 散りぬる夢に 漂わん
黄海と渤海に挟まれ、目の前の山東半島と対峙するかのよう突き出た遼東半島は,日本人にとっては、恋焦がれし、思いの募る地とでも言おうか、良きにつけ、悪しきにつけ、千千なる思いを巡らすところと言えよう。日本は、下関条約で手に入れた遼東半島を、三国干渉により不本意のながら手放すことになった。その干渉国のひとつであるロシアが、この半島を租借し、青泥窪と呼ばれていたこの地を、ダーリニー(遠い)と呼ぶ街へと開発していくのだが、その後の発展ぶりを横目で見ながら、当時の日本人はきっと悔しい思いと、ロシア憎しとの思いに浸ったたことであろう。1905年、そのロシアとの戦いに辛うじて勝つや、ロシアが持つ中国大陸での利権をそのまま引き継ぎ、念願の大陸進出の拠点として、この遼東半島を、日本人はやっと手に入れることが出来たのである。
僕にとっての大連は、青春の大連を清冽に描いた清岡卓行の芥川賞受賞作品『アカシヤの大連』との出会いに始まる。何度も読んでいるうちに、僕のうちには、ロマンチックで、叙情的な、形而上の大連がいつの間にか出来上がっていたのだ。
大連に到着した日の夕方、ホテルから中山広場に向かい歩いていたら、路面電車が、その路上を西から横切り、走っていった。以前来た時には、パンタグラフが、架線を嘗めながら、車両を前後に上下しながら走る、あの懐かしい車両であったが、今では、2連結した細身の意外とモダンな車両に代っている。日本から最初に持ち込まれたのは1909年だそうだが、今も市民の足として生きているのだ。眺めているうちにとても乗りたくなり、急いで最寄り駅の三八広場(旧朝日広場)に向かい、そこから大連駅までの203路線に乗った。世紀街、民主広場(旧敷島広場)、勝利橋(旧日本橋)、青泥窪橋(大連の昔の地名)を経て、やがて上野駅に良く似た大連駅の前に到着。料金は乗るときに、怖そうな小母ちゃん車掌の前の料金箱に1元を投げ込む。大連駅より西に向かう201路線は、北京街、大同街を通り、五一広場(旧三春町)、興工街などの繁華街を通り、沙河口駅に至る。また、興工街から嘗ての星ヶ浦海水浴場である星海公園を通り、小平島までは、202路線であり、星海公園を中心に大規模な開発が進行しつつある中を路面電車は走っている。特に、この辺りは大学や研究機関が集まるハイテク開発地区であり、海を埋め立て、あるいは山を開発して、新たな住宅地区も作られている。昔から日本とはなじみのある大連だけに、路面電車に揺られているうちに、いつの間にか古への誘いを感じるのだ。大連での2泊の滞在中、何度この路面電車に乗ったのだろうか。旅順への一日観光も、その帰りに、202路線の終点の小平島駅付近でバスから下ろしてもらい、路面電車に乗り換え、車窓から大きく変わろうとしている街を眺めながら、子供のようにはしゃぎながら大連駅に戻ってきた。
3日目、午前8時、大連駅から沈大線に乗り、鞍山市に向かう。駅を出ると、やがて両側にトウモロコシ畑が延々と続くのである。このあたりも、赤い太陽がゆっくりと地平線に沈む満州の大平原が広がっているとばかり思っていたのだ。やがて遠くに山なみも見え始め、起伏のある地形へと変っていく。線路沿いは相変わらずのトウモロコシ畑が続くが、鞍山に近づくにつれ、やや奇形の山なみに変わり、その手前の小山の頂には大きなお寺が、さらに真近には、屋上に瑠璃瓦の建物を載せた奇妙な形をした建物が、後ろへと走り去っていく。やがて、目の前には、古いビル群が続き、工事現場のような市街地の中を、列車は徐々にスピードを落としながら、11時05分に鉄鋼の町、鞍山駅に到着した。鞍山鉄鋼コンビナートは、武漢、包頭とならぶ中国三大鉄鋼コンビナートのひとつであり、中国では、中学生ならば誰でも知っている鉄鋼の町である。この地における鉄の歴史は古く、前漢の時代には鉄が造られていたという。 近くには、東鞍山、西鞍山、大狐山などの鉄鉱石の鉱山も多く、北東の隣町は、石炭の露天掘りで有名な,撫順である。嘗ては日本の国策会社満鉄の関連会社であった。駅前は大規模な再開発事業が進行中である。
暑い日であった。お昼近くになっていたので、食事をしようと、駅から近かくの繁華街をうろうろしたのだが、それらしき店もなく結局、麺類のフアーストフーズの店に入り、腰のない四川風の辛いうどんを食べることなった。食後、タクシーを拾い、湯崗子温泉に向かう。先ほど大連からこの鞍山まで来た線路に沿って、戻ること7キロ、湯崗子温泉と書かれた大きな正門を見つける。その隣には、つい先ほど車窓から見た、屋上に瑠璃瓦の奇妙な構造物を載せた建物のようで、その外壁をみると、問診部の文字が見える。この温泉が、今では、温泉治療の療養所となっていることが分かる。この地区は、嘗ては南満州鉄道の付属地であったので、当然に鉄道線路から近いところにあるのだ。敷地内には建物が幾十棟もあり、普通の宿泊客も泊まることのできる施設がある。敷地内の案内看板には中国語のほか、ロシア語と韓国語が併記されている。清朝最後の皇帝溥儀が、この温泉地にしばらく潜んでいたと言うことを聞いていた。敷地内の、どちらかと言うと古い2階建ての建物の前で車は止まったのだ。入り口には龍宮飯店と書いてある。 チェックインのあと、午後4時で受け付けが終わると聞いたので、この温泉の名物の泥温泉に急いで向かう。蓮池を通り、全泥宮と書いた建物に入る。更衣室で、大連のデパートのバーゲンで購入した水泳パンツに着替える。体育館のような部屋に下りていく。客は7,8人ほどで、コンクリートで丸く囲まれた砂交じりの泥場があり、砂を掻き揚げ、平らにした泥の床に、仰向けに寝ると、中国人の三助が、何処から来たのかと尋ねながら、泥をスコップで掛けてくれる。泥温泉は男女混浴?で、僕の右隣は、大柄のロシアの女性であり、左隣は、穏やかな雰囲気の、とても苗条な30代半ばの中国人女性、向かい側は、韓国人の初老の男、それにいずれも立派な体格のロシアの小母さんが2,3人、である。三助は、僕に何国人かと尋ねるので、日本人だと言うと、知っている日本語の単語を並べながら、泥を少しづつ掛けてくれる。どうやらこの施設では日本人が珍しいのか、三助は僕にやたら話しかけてくるのだ。これが終わったら、美味しいお茶を飲ましてやるとか、私を秘書に雇ってくれとか、何とか言いながら、とても愛想が良いのである。横のロシア人の小母さんは、典型的なメタボであるので、右を見ると、お腹のあたりが小山のように泥が盛り上がっている。しばらくすると、汗が体中から湧き上がってくる。三助が、時々タオルで顔を拭いてくれる。その時、些か卑猥な笑いを浮かべながら、なにやら小声で話しかけてくるが、正直、何を言っているのかはよく分からないので、適当に相槌を打っていた。30分ほどで泥から解放されたが、体がぽかぽかとし、身が軽くなったような気がして、気分も爽快になっていく。しばらく泥の上に横になって、休んでから、水で泥を落とし、服に換え、外に出た。この施設の前の蓮池は、今が盛りとばかり花が咲いていたが、その中央にある東屋で,蓮の花を眺めながら、暫し体を冷ましていた。帰りに、施設内のレストランで夕食を終え、部屋に戻ってきた。しばらくすると、雷が鳴り始め、大粒の雨がぱらぱらと降り、やがて雨脚がとても激しくなってきた。内装も設備も古いこのホテルの部屋の窓から、雨音と雷鳴を聞いているうちに、1931年11月13日、関東軍の土肥原の、満州国の皇帝にとの誘いに乗り、天津を脱出、営口に上陸し、このホテルに入った溥儀の、その時の思いを想像していた。
1931年9月18日満州事変勃発。1931年11月10日夜、天津騒乱に乗じ、宣統帝溥儀は天津市の日本租界から白河埠頭に行き、11日未明、そこから日本軍所属の比冶山丸で、大沽に下り、深夜になって、一行は淡路丸に乗り移る。13日早朝、大杉栄惨殺事件の被告であった甘粕正彦ほか僅かな日本人に迎えられ、遼寧省営口市の満鉄埠頭に到着。そこで、馬車に乗り換え、駅に向かい、そこから汽車で一時間あまり移動し、再び馬車で、湯崗子温泉に入り、日本風の洋館である“対翠閣”に泊まる。湯崗子温泉は満州鉄道の付属地に所在し、満鉄が経営する旅館であった。この時、この旅館は貸切になっており、溥儀は実質的には軟禁状態であったと言う。その後、より安全のためという理由で、18日には旅順大和ホテルに移り、そこでも同様な軟禁状態のまま、年を越すのである。
中国の朝は早い。どこかで聞いたような流行歌に目が覚める。部屋の窓から眺めると、ホテルの前の広場では、健康ダンスを興ずる人々で溢れている。曲は日本の演歌である。建物の奥に皇帝溥儀と,皇后が入浴したお風呂があるというので、朝食の帰りに見に行く。壁のタイルは竜宮城で乙姫様の歓迎を受ける浦島太郎の図である。溥儀はこのタイル絵に描かれている浦島太郎を見て、ひょっとすると、自分のことだと思ったのかもしれない。
張作霖と学良親子の、思い出の地を辿るのが、今回の旅の主な目的である。昨日駅からこのホテルまで乗ったタクシーの運転手に、今日一日の計画を話し、案内してもらうことになっているのだが、これまでの例から見ると、中国人は、いつも、何も問題はないと、自信を持って言うのである。彼に、昨日別れるに当たり、今日のコースをしっかり調べておいて欲しいと頼んでおいたのだが。午前9時、運転手の徐君が迎えに来てくれる。ここ鞍山出身で、解放軍上がりの39歳の青年である。まずは、台安県にある学良生誕地に向かう。
匪賊、馬賊上がりの旧弊な軍閥だと言われてきた父と、その息子が、生きてきた時代と場所を見つめながら、この親子の絆がいかなるものなのかを、強く感じる旅を、僕は期待していたのだ。
鞍山駅から南西約7キロのところにある湯崗子温泉は、現在の大瀋線、嘗ての南満州鉄道の付属地に位置するが、台安県は、北京、錦州、瀋陽を繋ぐ京瀋線に沿って広がる町である。したがって、目指す台安県には、湯崗子温泉からだと、鞍山市の南東地区から北西地区へ横断することになる。市街地を走る国道をしばらく走り、両側に農地の広がる郊外を走る省道を走り続ける。道路の両側には街路樹が植えられているが、このあたりでは、槐樹、アカシヤなどもあるが、やはりポプラが多く、その外側は、かなり成長したトウモロコシ畑が続いている。よく見ていると、起伏がある地域であるが、農道は縦横に走り、圃場整備もなされ、良く管理された農地が続く。いくつかの集落を通り過ぎるにつれ、トウモロコシ畑の中に、水田が見え始め、更に進むにつれ、水田が次第に広がっていく。再び人家の密集する町に入ると、店舗や集合住宅なども多くなる。街の中心らしきところには、大きなローターリーがある。その中に見覚えがある銅像を見つけ、慌てて徐君に車を停めるように言う。停まるや、ローターリーに向かうと、軍服を着た張学良の立像である。その脇に八角台と書いてある。八角台は、満州国第2代目の国務総理である張景恵が、嘗ては馬賊の親分として、雑貨店などを営みながら仕切っていた町であり、この地に家族を連れ、落ち延びてきた張作霖に、この縄張りを譲り、張作霖が馬賊の保険団として、守っていた町のひとつである。今の台安県の県庁所在地である。それなりに賑やかではあるが、農村地帯の中心にある街という感じであろう。早速写真を撮り始める。そして今度は銅像の前に立ち、嬉しそうに写真を撮ってもらっていると、胡散臭そうな顔をして、人々が集まってくる。取りあえずは、彼らを無視していたが、張作霖が馬賊の助っ人を集めに行った浪人市場は、ひょっとすると、こんな風に、何かあるのではと思いながら人が集まってくるところから始まっていたのであろうと思い、張学良の像を仰ぎ見ながら、一人、悦に入っていたのである。再び農村に入り、整備された農道を進む。この一帯の農地はほとんどが水田である。ポプラの並木は続くが、ところどころに、ポプラが森のように纏まって植えられている。防風林なのか、ポプラが伐採され積まれているところもあるので、加工用の植林なのかもしれない。その合間の放牧地に、真っ白な肉付きの良い牛が数頭放牧されているが、乳牛なのだろうか。突然、徐君は、ハンドルを切り、事務所風の建物の前の駐車場に車を停めるや、急ぎ足で、その建物に入っていく。少し行き過ぎたと言いながら戻ってきて、先ほど走ってきた道を戻り始める。相当前に回らねばならないのを、まっすぐに来てしまったようだ。このような場合、日本人ならばどうするのだろうと考える。徐君は、何やら説明的に話をしていたが、どう見ても、道を間違えて申し訳ないという雰囲気ではないのだ。まあそこが中国人の、中国人たる自信なのだろうと僕は思うのだが。謝る必要がなくても、ごめんなさいから入る、日本人とは違うのだろうと思うのだ。とは言え、日本でも、最近は電車の中で、足を踏んでも、謝らない人が増えてきたような気がするのだが。時間のロスの大きさに気がついたのか、その後、徐君はやたら人に道を聞いて進んで行った。やがて細い道を通り、小さな集落に入り、突き当りを左に曲がったあたりには、人が数人たむろしており、その前で車が停まった。泥濘を避けて下りると、この家の管理人だと言う初老の女性が近づいてきた。
張学良は、ここ、現在の台安県桓洞鎮鄂家村で、1901年6月4日に生まれている。父張作霖は、当時売り出し中の馬賊であり、請負地域を守る馬賊保険団として活躍していた。しかし、馬賊間の争い、つまり縄張り争いに負け、身重の妻と娘を連れて、妻の親戚を頼り、台安県県城である八角台に逃れてきた。そして八角台の西北にある妻の親戚のこの家で、学良は生まれた。学良は幼き時を思い出し、父にどんなに可愛がられたかを、台湾での軟禁が解かれた1990年に、NHKの『張学良の昭和史最後の証言』の中で、次のように述べている。『 私が産声を上げたちょうどその日に、父は初めての戦いに勝ちました。父がのし上がっていったのは、この勝利がきっかけでした。ですから、父は、私のことを本当に可愛がってくれました。まさに千金の子だったのです。』
母親は彼が10歳の頃亡くなっているが、父作霖は、息子学良をとても可愛がり、名前にも学を付けたように、多くの家庭教師をつけ、勉強をさせた。長男として生まれた以上、父の後を継ぎ、奉天軍閥の長として活躍しなければならず、後に、学良は、人を救う医者になりたかったのであるが、人を殺す軍人になってしまったと、述べている。この家には6歳まで住んだと言われている。当時この家は、藁葺きレンガ積みの平屋建物で、部屋数は5間あり、彼はその一番東の部屋で生まれたと記録されている。入り口には、“張学良出生地”と金文字で書かれており、建物の大きさは、当時のままである。展覧室は4室ある。子供の時代、皇姑屯事件、西安事変、そして蒋介石によって軟禁されていた長い時代などの写真や関係物などが陳列されている。敷地規模も当時とほぼ同じ600?あり、当時の井戸と裏庭には樹齢300年の棗の大木がある。1991年に、赤くなったこの棗の実を台湾の学良将軍に送ったら、”棗の木の下でよく遊んだものです。棗の実を見て、昔のことがいろいろと思い出すことが出来、本当に嬉しく思います。ありがとう”と、学良から人を介してお礼があったそうだ。この棗の木の隣に、楡の木が自然に生え、そして大きくなっていた。地元の人は、この楡の木は、学良の第一夫人于鳳至さんの樹だと説明する。中国語では、楡も、于も、発音はYUである。老管理人はこの樹木の説明に20分余も掛ける熱心さであった。
いつの間にか村人が、と言ってもほとんどが老人であるのだが、僕の周りに集まっている。抗日の英雄を出した村人は 、日本人の僕が、わざわざこの記念館を見に来たことを話題に、しばし退屈な時を忘れてくれるならば、これも幸いかなと思いながら、この地は離れる。
この集落を出ると、再び水田の広がる中の農道を走り、やがて森の中に入る。木々の間から進行方向に大きな門と石の造形群が見えてくる。“少帥陵“である。全体としてはまだ新しい陵のようであるが、石畳の周りは雑草に覆われ、石段にも雑草が頭を出している。一番後ろにある墓園の周りは、通路をのぞき、夏草で覆われている。完成したときは、賑やかに儀式が催されたようであるが、歴史に学ばねばならぬ国でも、経済危機の今は、現実の生活が優先と言うことなのだろうか。
お昼になっていたが、周りには食堂らしき店など見当たらないので、とりあえず八角台まで戻ることとしたのだが、途中北京・ハルピン高速道路のインターに出会い、そこから高速に乗り、錦州に向かうこととした。北京ハルピン間の主要高速道路のため、大量の荷物を積んだ大型のトラックが、猛スピードで走って行くのを見ていると、些か恐怖を感じる。
疲れが出たのであろうか、いつの間にか車の中で転寝を楽しんでいたのだが、ふと目を覚ますと、高速道路の脇の山に、張作霖墓園の看板を見つけた。1928年6月,河本大作らに爆殺された張作霖は、死後9年間瀋陽(奉天)郊外の王爺廟に安置されたままであった。それを錦州に運び 、張作霖第一夫人の墓の横に埋葬しようと言う案を立てたのは、甘粕正彦であった。1937年6月2日張の霊柩安葬には、張学良は来なかったが、その弟や親族縁者が列席し、盛大に行われた。甘粕は、日本人は葬儀の表面に顔を出すなと言い、極め細やかな指示をし、その費用をも出したと言う。その墓園が、ここ錦州市○海市(○の中は、にすい偏に、陵の旁)石山鎮にある、張作霖と第一夫人趙氏の墓である。実はこの墓地も見て行きたかったのであるが、昼食取らずに運転させていたので、徐君にあまり無理を言うのもと思い、そのまま錦州に向かわせた。錦州インターを下り,錦州北駅までは、約40キロ、午後3時錦州北駅に到着した。ここで徐君と別れ、地元のタクシーに乗り換え、ホテルに向かう。
父張作霖が日本軍に爆殺された時、学良は北京で、彼の誕生を祝うパーテイを楽しんでいたのだが、炊事兵に変装して密かに奉天に戻ったと言われている。父作霖の死はしばらく伏せられていたのだが、これを機会に、一気に東北三省を日本軍が完全制覇しようとの関東軍の思惑は、張作霖の生死不明と、日本軍には抵抗しないという奉天軍の戦略により、この事件では達成することができなかったようだ。むしろ日本軍による父作霖の爆殺を契機に、張学良は、反日を一層鮮明にしたと言えよう。『張学良の昭和史最後の証言』の中で、学良はこのことを述べている。
『たとえ私の父が日本軍に殺されなかったとしても、私はやはり同じことをしていたでしょう。私はずうっと中国の国家統一を主張してきたからです。・・・。父の死が私の気持ちを動かしたのではありません。ただあの事件のせいで、私はそれまで以上に抗日運動に没頭するようになりました。』2010/08/25 11:08:58
- 森と湖の国 FINLAND ひとり旅 part1 <準備・出...
-
いつか行きたいと思っていた北欧
でも、かなり未知の世界+今回初めて日本人サポートが全くない旅
英語力はほとんどないし。。
不安もありましたが、治安が良いとの事なのでまあ、大丈夫か・・・と
良くわからない自信??と共に出発です
~日程~
1日目 ヘルシンキ到着
2日目 タンペレ観光 アウランコ泊
3日目 アウランコ湖と森散策 ヘルシンキ泊
4日目 ヘルシンキ観光 ヘルシンキ泊
5日目 トゥルク&ナーンタリ ムーミンワールド ヘルシンキ泊
6日目 ヘルシンキショッピング
7日目 ヘルシンキ出発
毎回持ち物がとても多いので、書き留める事にします
<使ったもの>
パスポート パスポートコピー 証明写真 旅行保険コピー 現金(5万円両替+日本円) クレジットカード
スーツケース 機内用バック 斜めがけバック×2(大・小)
財布兼パスポートケース メモ帳 ペン×2 本(ガイドブック×2 英会話集)電子辞書 薬(アレルギー用 胃薬 鎮痛剤 便秘薬 下痢止め 安定剤 ステロイド塗り薬) 虫除けスプレー キンカン 洗剤 洗濯ハンガー セロテープ サロンパス ティッシュ×3 ウエットティッシュ ジップロック スーパーの袋 フォーク・箸・スプーン ソーイングセット ゴム マスク
洋服(着ていったもの含む)・・ ワンピース×2 レギンス Tシャツ 長T×2 ジーンズ×2 ブラウス×2 カーディガン ストール 帽子×2 ソックス ブラキャミ×3 キャミ ブラ パンツ×4 水着 サングラス ハンドタオル スニーカー パジャマ 携帯スリッパ 変圧ソックス
洗面道具・・歯ブラシ&歯磨き粉 クレンジング 角質落とし 化粧水 乳液
BBクリーム デンタルフロス ヘアブラシ T字カミソリ 制汗剤 ベビーパウダー 口紅 リップクリーム アイシャドー アイブロー カミソリ はさみ 日焼け止め ビューラー ヘアワックス 携帯用の化粧水・乳液・クレンジング(機内持ち込み用) 毛抜き
ドライヤー 充電器(携帯・i pot・カメラ) 変換プラグ×2 湯沸かし器 紙コップ
カップラーメン スープ お茶類 コーヒー お菓子類
<使わなかったもの>
予備のカメラ 蚊取ベープ(部屋用) 折りたたみかさ ウィンドブレーカー サンダル タオル 文庫本×2 マウスウォッシュ マニキュア アロマオイル 財布(小)お菓子類
あまり無駄なものは持って行っていませんでした
スーツケースも、行きは半分くらい空いていたし。
疲れて、夜の洗濯が面倒だったので、もう少し服の替えを持って行っても良かったのかも・・・?
2010/08/24 01:08:48
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